昭和四十六年二月十一日 朝の御理解
X御理解第六十一節
「神より金光大神に何時までも尽きぬおかげを話にしておくのぞ。信心しておかげを受けたら神心になりて人に丁寧に話をして行くのが真の道を踏んでいくのぞ。金光大神が教えた事を違わぬように人に伝えて真の信心をさせるのが神へのお礼ぞ。これが神になるのぞ。神になりても神より上になると思うな。」
信心しておかげを受けたら神心となりてと頂いております。神心とは大変な意義というか意味をもったものだと思います。仏教で説く慈悲とかキリストの教えで説く愛とかを二つを一にしてもまだまだ足りない程しに素晴らしい内容を持ったものが神心という事になりますんですけれど、ここではおかげを受けた喜び、そういう意味で今日は頂いて頂きたいと思います。そういう大変な内容を持った只おかげを頂いた喜び、ただこのおかげという事も御利益といっても良いでしょう。
何にも分からなかった者が人にお導きお参りをしておかげを頂いて、本当に神様のおかげとはこう云うものであろうかと心から喜ぶ心が湧いてくる。
その喜びの心を以て人に丁寧に話して行く。そういう行き方が出来てくる。そういう行き方を真の道を踏んで行く。だから真の道というこれを大変難しく意味つけますと、ここに説かれる真の道は非常に深いのですけど、今月は神心と云えばまあお参りをする、お願いをする、おかげを受ける。その受けた喜びを今日は神心と云う。
それを又人に丁寧に伝えて行く。丁寧に話をして行く事は、もうそのままが真の道を踏んで行くことなのです。
金光大神が教えた事を違わぬ様に人に伝えて真の信心をさせ、だから此処でも真の信心をさせるのが神へのお礼ぞと云う事も、真の信心とは大変なこと、ここで説かれる真の信心というのは三代金光様から直接頂いた御教え、真の信心とは安心を受ける信心でありますと。もうその信心に依って最高の御徳というかおかげを頂かなければ安心の御徳は受けられませんけれど、だからここでは真の信心させるのだというのは金光様の御信心をさせるのだという風に頂いておきたいと思います。自分が金光様の御信心を頂いた、合楽に御引き寄せ頂いてそしておかげを頂いた。そこで合楽の信者としてのお導きが出来た。それが神様へのお礼だと。
私共は昔から何をお供えするよりも神様が一番お喜びになるのは人をお供えするのが一番良いと、一番神様がお喜びになるという風に聞いてまいりました。まあその程度ですから成程神様に最高のお礼になる訳です。ならこれが神になるのぞと。ここは大変難しいですけどね。まあけれどもこれもこのまま頂いてですね。神様へのお礼が神様が一番喜んで下さるその喜びがまたこちらへ照り返って来るという事も事実であります。と云うて神となりても神より上になると思うなと。その辺のところもその通りまあ神より上になるという事も大変意義の深い事でしょうけれども、自分はもう何人も導きが出来たというなら思い上がりですね。
まあ云うならこの六十一節をこのまま平易に平板に頂くその奥の奥とか深さとかそう云った意味ではなくて、私は思うんですけどね、ここでは確かに先日日田の富の寿の御主人に毎日お参りになりますがこの頃昼からお参りになりました。丁度高橋さんがおられました。私達三人お話しさせて頂いておる時にね。私の信心を許してね。高橋さんは何と云われましたかね。哲学、兎に角哲学だけは知っておりましたが、兎に角合楽の信心に素晴らしいと思うことは信心のことを説かれる事が哲学以上の哲学であるという意味のこと。まあ最高の学問を身につけられた方ですから、そういう風に表現なさる何か三つ上げられる。私はそれを聞いてからそうですと云わずにおれない程、合楽のことをぴしゃっとこう云われましたね。三つのことを上げて。その中に・・・私は忘れましたが哲学といや哲学以上と云われた事を覚えております。
合楽では深く一つの教祖様の御言葉ひとつでも掘り下げて、又は今迄はとても気がつかなかった、いや、とても神の知恵を以てしなければこういう深いものがあると云うた様な事が感じとれないところを教えて頂くということが、そういう傾向が非常に強い訳であります。でも今日はそうではなくて一番表面に出てる所だけを申して。
信心しておかげを受けよ。もう信心しておかげを受けるというなら、合楽の信者さん全てがおかげを受けます。ですから、本当におかげを受けて有り難かったとこういう有り難かった有り難いというそういう心を、云うなら私は神心になりてと、私がいつも云う様な意味に於いての神心などということが、云うなら三年五年の信心で頂けるとは思いません。又分かろうとは思われません。ですからそのおかげを受けた喜びと云うならば皆が一応はその時だけでも感じる。ですからその喜びの心を以て神心と今日は頂いた。神心となりて人に丁寧に先日はこうこう難儀な事がありましたが、初めて合楽に参ってお話しを頂きましたら な事ばかり、段々お話しを頂かして頂いて愈々分からせて頂いたとか、または取り次ぎを頂いてこういう有り難いおかげを頂き教えを頂きましたと、世の中には沢山同病相憐れむ人が有る筈なんですから、だからそれを一生懸命に話して行く、それだけの事。それが真の道を踏んで行く。
人に伝えて行く。人に伝えて行く事が真の信心をさせるのがとおっしゃるのは、そうして金光教お道の信心に合楽の教会に導くということ。そして金光様の御信心をさせるという事が神へのお礼だと、その御礼のしるしに只今申しました様な御礼、自分のおかげを受けた喜びを伝えて行く。然もそれが神になるのぞ。最後には神になりても神より上になると思うなと。まあいくらお導きが出来たからというても、それは本当いうたらお前の力ではないのだ。神様のおかげで出来たのであるからどこまでもお導きしたのではない。お導きをさせて頂いたのだぞと分からせて貰う。
まあ今日の御理解なら皆分かられるでしょう。分からんちゅう事はないでしょうね。それだけのことです。私は今日それを思うですね。
そういう例えばここに教祖様が御理解を六十一節の一言の中にでもこれだけの事を教えておられる。しかも深いとか広いとかいう意味じゃない。只目の前に見える所だけ、いわゆる自分の行く先の事だけ。信心させて頂く者はこの様にあれよと教えて下さっておる。もう深さとか、言うならば哲学する訳ではない。真理の追究するという意味でもない。天地の法則を分かるという意味でもない。只それだけの事。只それだけの事が果たして出来ておるだろうかという事なんです。容易う容易う説いて、なら容易う行じて行けという事がです、果たして出来ておるであろうか。いや深い事は分かることはいらんこれだけ分かる事だけでも成程に分かって行けば最後に神にそれが段々神になるのぞということに段々進んで行きよると思うけれども、一番簡単な容易いそのことすらがお互い出来ていなくて只難しいことが分かって行くことだけに汲々としておったんでは値打ちがないことになりますね。
本当に合楽でいろいろ御理解頂きますと確かに哲学以上の哲学だなというたこと以上のことを感じます。これは正しく合楽教学だと、合楽の御理解を聞いた人が言っております。確かに合楽教学であり、哲学以上の哲学だと。これは私自身ね、本当に例えば一つの御教えにしましてもね、こんなに深い広い意味が有るのかと思われる位にその深さ広さをもっております。その深さ広さが分かってああ素晴らしい素晴らしいと思っただけではおかげにならん。なら今日は教祖のお言葉が出ておるそのままのこと。
ここに神心とあるは、この神の事はこういう意味だというのではなくて、もうおかげを受けたそのままが神心だという。だから、その神心を以て果たして私共が実意を込めて丁寧に私はこういう難儀の中にこういう難儀な問題をこの様にしておかげを頂いておるかということを伝えて行く。いわゆるこの六十一節を行じて行くならばです、成程一番初めに生神金光大神にいつまでも尽きぬおかげをというておられる。私はもう深いこと分かることいらん。広いこと分かることいらん。これだけのことが分かって、これだけのことが行じられるならね。もうそれこそ、尽きぬおかげを頂いて行けれると無限である。無尽蔵である。しかも理屈には分からんでも、その神心が段々深くなって行くであろう。神様に喜んで頂けるということは、それが喜んで頂くことが度重なることに依って神の信用を頂いて行くことも出来るであろう。
成程神になることはそれだろうと思う。それが神になるのぞとまで言うておられる意味はね、分かるでしょう。神様の御信用が出来てくる。私共は言うならばね、一番容易う出来る、一番手近なところをおろそかにして、只深いところとか今迄聞いた事のない表現を以て、所謂教学的に分からせて頂くとか、心理学的にそれを掘り下げて行くとかと云った様な事だけをしておって一番手前のところが出来てなかった。私はね、おかげにならないとこう思います。
二、三日前に飯塚の古賀先生がお見えになりました。十日ばかり前にも出て参りました。それは今あちらの若先生が御本部で先生を勤めておられます。大変な御用を承っておられます。そしてから、皆さん御承知でしょうけれども、親先生は学院の補導として月に何回か御本部にお出でになる。学院生にお話しをなさる先生です。御承知のように大きな先生ですがね。十日程前に十四、五日程になりましょうか、昨日学院から通知が参りました。大久保先生が学院生を連れてそして会堂と金光様の御宅の道を朝御出仕しておられた。そしたらあの金光様の横から来る道をスピードを出して二人乗りの単車が来て先生を跳ね飛ばした。それでね、そのまま覚えんごとなってそれでもうリヤカーを借りて来てあただに病院に運んでしたところが云うとられた、いろいろ打っとられて一週間位で退院出来るであろうと。それが一昨日出て参りましてから、実は今日帰られる事になっとりました。ところが向こうの方からまだ退院出来そうにないからまだですという訳です。ですから古賀先生は大久保先生の弟子ですから、師匠のことをお願いに来た訳です。そしてまた改めてお願いさして頂いたんですが、ところがね、親先生本当におかげを頂きまして、おかげを頂いて若先生もおられません、親先生もおられません中に私が一人で御用をさせて頂きました。あちらの奥さんも教師の資格持っておられますから、大体おられるのですけど看護に行っとられる。あちらに。
私が一人であの大きな教会を云わば切り回させて頂く程のおかげを頂いておる。その為に御比礼の落ちる様なこともなく、親先生が怪我されたと聞いた信者さんは一段と生き生きとして信心が出来るようになり、もう本当に親先生が私に信心を分からせて下さる。取次者としての勉強をさせて下さる為にね。親先生が怪我して頂いた様に思いますちゅうて、、一日も早く全快のおかげを頂いて頂かねばなりませんが、私はそのおかげで私自身がこの様なおかげを頂いているとお願いやら御礼やらお届けを聞かせて頂きました。ところがね、そのことが信者に非常に受ける。その事だけが、
親先生が怪我をされたというそういう事が、いわゆる無意味なものではないのだと。そういう事が自分に力を付けて下さる為だと、信者に本当の信心させて下さる為だと。そこに親先生の怪我、まあ普通から考えられない。
学院でしかも学院生と一緒に先生にふっつからんで引っ繰り返って覚えなさらなかった。どうしたこっちゃろか。とそれだけのこと。それを弟子として古賀先生がそのような受け止め方をさして頂いておる。そしてそのことばかりを信者に聞いて貰っておる。
もう私の様な者でもこの様な大きな教会の手代わりさせて頂いて、親先生がまあきつい思いをなさいましたけれども、弟子の私がこの様なおかげを頂くためだったと、その喜びを参って来る信者に伝える。例えばそれが実感としてですね、本当に難はみかげと云うて有りますねと信者さんが喜ぶ。実にお話しが平板ですね。こういう事があってどこを分からんかというと、深くじゃなくてから、もう一番手前のところ分かっているということ。信心のない者やらは、どうしてとこう云うけれども、そこはお互い信心がこあるのですから、その手前の事が分かって手前のところが行の上に表された時、それが自分自身のおかげにもなるし信心になるだけじゃない。その事だけを信者に聞いて貰い、信者も難はみかげというてあるが本当ですねというて喜んでおられますとこう云う。
私共は確かに論語読みの論語知らずというてありますね。合楽の場合は素晴らしか素晴らしかばかり言うとって、手前のところが出来とらん。論語読みの論語知らずになっては、こんなつまらん事は有りません。
私共がいつまでもいついつまでも、おかげの受けられる信心というのは深くそれが分かって行くという事ではない。深く分かったから徳を受けると云う事ではない。
合楽教学を如何に身に付けても哲学以上の哲学を成程なと合点して行っても一番手前の所をこれは金光様の云われるところをその通りの事を今日は申し上げたんです。
そのことを私はここは何十回頂いた御理解か分かりませんけれども、もう空んじる程ここんところは覚えておるけれども、その事を私共が表しておる事がどの程度のことに成っておるであろうか、それを表して行きよれば一番最後のところ神になるのぞとおっしゃるところまで行けれるのです。それが神へのお礼ぞともう何よりの御礼になるのです。
そのお礼がです、度重なっていくところに神の喜びが愈々増し、神の信用がそこに裏付けられるのである。そこで一番最後、神になりても神より上になるなというところに心懸けさせて頂いとる当たり前の事を教え頂いて、当たり前に只実行さして頂いて行けば神にもなれば御徳も受けられる。勿論御徳を受けるという事は神になるという事ですが神様への御礼にもなる。どうも合楽ではここんところが出来ていないように思います。
その証拠に何かちょっとした問題が有りますとね、その問題が解けてないのです。あんた日ごろ何ば稽古しよるのと云うごたる時が有ります。沢山有ります。余り深いことばかり分かってとるもんじゃけん手前の事はいっちょん分からん。そんな感じ。
今日はそんなね、平板と云うならば平板、こう云うならば読んだだけの様な感じ、そこから私共感じ取らせて頂く。古賀先生じゃないけれどですね。その事を通して本当に親先生にご苦労かけてすみません。弟子の私にこのようなおかげ下さる為にという様な早速行に表して行けれる。そう思えば出来る事を今日は帰る人達にでも皆さん人に伝えて行く事の実行をなさったらどうだろう。
おかげを受けた喜びを丁寧に人に話し伝えて行く事を行の上に表して行くところのおかげ、そして真の道とは真の信心とはと云う事を次第に自分の体で分かって行く。
昨日の朝の御理解に骨肉愛という事を頂きました。私は昨日も申します様に意味が分からなかった。昨夜の月次祭にもその事をお話しさせて頂いたけれども、その意味が分からなかった。どうい訳で骨肉愛なんて無いもんね。字引きを引いても骨肉相食むというた様な事は聞いたけれども、成程骨肉愛なんて月次祭が終わって下がらせて頂いて、御説教終わってふと気が付いた事でした。ははあ、骨肉愛なんて昨日朝の御理解、天が下に他人というものは無き事ぞということでしたね。天が下に他人と云うものは無きことぞと頂いて、私は祈念中に骨肉愛と頂いて、それとこれとかどういう風にしてつながるのかと思うておったらね、成程天が下に他人は無い。一視同仁だという事を。成程いくら色が黒かっても黄かっても、白かっても骨と肉とは同じ事だと分かった。黒人の骨じゃから、骨まで黒いことはなかと思いますね。いわゆる赤い血が出る。骨は白い。ああ成程意味は深いなあ、神様が下さる事はと、改めて思わせて頂いたんですけどね。
私共が昨日の御理解を骨肉愛、他人というものはいないのだと教えて下さるのですから、私は今日の御理解を平易に頂いて、それこそ肉親の者に感じる様な、中々しかし難しいもんですね。赤の他人を肉親といって、それこそ深く頂いてそれこそこれが神心になって来なければおられん事なんですけれど、けどもそのところをですね、骨肉愛というところの今日云うところのおかげを頂いた喜びを神心だという程度に頂いて、それが人に伝えられて行く内に、その人が喜ぶおかげを頂いて、後の人が助かって行くという事になったら、云うたら信心友達が本当に親戚以上にというでしょうが、それを行じて行かなければそれが分からないのです。
私は今朝、私自身がお気付け頂いた事が有ります。と云うのは高橋さんがもう十何日か断食を、無期限断食に入っておられる。神様から許される迄は頂かんと云うておられます。益々精気が満ちて来られる様な感じですね。貴方この頃断食始めて肥えなさったっちゃないですかと云う位に元気がある。足取りも軽い。しかもああして一日御用をなさる。ですから、私はね、今日はお食事のお許しを頂きなさるじゃろか、今日は頂きなさるじゃろうかという風に祈りもすれば思いもする訳です。ところが、今日は御祈念中に見事にその事を忘れとった。これがどうだろう骨肉愛を以て高橋さんの事を思うておったら、とても一時だって忘れられはせん。息子なら息子が断食をしとると思うたら、しかも十日になり十何日になるというたら気が気じゃなかろうと思う。ところが私自身神心が欠けておる証拠、云わば永々と御祈念させて頂く中にその事すらも願うてはいない。何と相済まぬ事かと御気付け頂いてね。立とうと思うた。御祈念終わってそしたらね、人差し指と高たか指とね糸でくくっとるところを頂いた。こげん。
頂いたからまた終わろうと思ったけど、どういう事であろうかと思うて御神意を頂いたら、今日高橋の事をおまえは忘れとろうがと頂いたんです。
人の事人差し指ちゃ、これは中心、自分のこと、本当にもの事を忘れる時に指をくくっときなさいちゅうのが有るでしょうが。
私は秋永先生にちゃんと貴方忘れなさんなテープで指はくくって行かんのちゅうちから云うんですよ。よう忘れなさるから、人指しに何の為にくくっとったつの忘れるごたるこつじゃちゅうち、よく笑うんです。秋永先生よう忘れなさるけんで今日の私は完全にそう、これ程しの修行させて頂いとるなら自分がそのことが息子であったなら、とても一時だって忘れる事はないであろう。もうお許し頂くだろうか、もうお許し頂くだろうかと思う。所謂骨肉愛と頂いたそういう御理解、人の心の中に段々神心が段々出て来よる様になっても未だ未だその位の程度だと神様はいつ願うじゃろうか、いつ願うじゃろうかと思うてござるとに、願いもなーもせんなりに、私が立ち上がって行きよるから、指を指して糸で指をくくって行かれました。それでも未だ気が付かん、どういう事じゃろうかと思うて今日は高橋の事を願うておるまいがと神様はおっしゃる。昨夜、寝がけだけには願うておるけどね。
けども今日の御祈念にはそれを忘れとる程しに私共の信心は出来て居る様で出来とらん。おろそかである事を改めて気付かせて頂いた。だから、中々その骨肉愛と云った事はむつかしい。けれどもね、今日頂いておる御教えの平板なところを頂いて行きよる内にです、神心が神心を生んで行き、それが募りに募って行き神様への御比礼にもなり、又はそれが神になるのぞと云う様なところがいつの間にか次第に自分の身に付いてくるというか、信心が血肉になってくるおかげを頂かせて頂く為に、先ず手前のところからすぐ行じようと思えば行じられるところから行じながら深い広い信心を御会得して行きたいと思いますね。 どうぞ。